(6)まとめ【伝えるってナンだ? 情報保障から考える】
判断ミス、言い間違い、言い過ぎ・・・誰にでもあることだ。
2年前、ヨッシーと沖縄に行った。空港降りて一ヶ所目の万座毛で景色の落ち着いているように見えた感じを「言葉では言い表せない」と全盲のヨッシーに伝えたことを反省しなくてはいけないと思う。自分は風景に感動しているのにそれを中身のない「言葉で言いあらわない」という言葉でごまかして。相手は風景が見えていないのだ。今となっては怠慢以外の何者でもない。
ものを書くというのは、100を1にする作業だとよく言われる。ありとあらゆる情報を自分の中で整理して噛み砕いてやっと自分の言いたいことに磨き上げる。情報保障(手話通訳・点訳・音訳・通訳)は「0.5を1にしていく作業」ではないかと思う。様々なハンディーがあるのだがそのハンディーというのは大抵の場合“一部分”なのだ。それ以外の部分は正常なのだ。それを残存能力といったりもするわけだ。マイノリティといわれる人たちはこの残存能力をフルに活用して自分に足りないものを補っている。それでも補えられない部分を補う役割が情報保障なり支援の役割であってそれ以上でもそれ以下でもないのではないだろうか。
前回の対談でも述べたが、それを「ただ支援が必要だから」という目線で見る見方が嫌いだ。必ず本人にできることはある。それをないがしろにあいまいにして支援支援というのはなんだかと今は思っている。
どこから支援がいるかとかいうのは支援を受けるときでも支援をする時でもよくわからない。そんなとき鉄板で言われるのが、「本人に聞いてください」という言葉だ。でも、聞けない時もある。例えば映画館とかでとっさの状況説明とか、初めて行くところで支援が必要そうな時の依頼の仕方とかイレギュラーなことはいくらでもおこる。
伝える行為をするときには、わかるだろうとか推し量るとかじゃなくて相手がわかっていると思っても少しオーバーにやってみることを心がけようと思う。そうすれば相手に確実に通じる確率が高まる。
以前、会場への経路案内で通過する地点ごとに矢印を持った人が写っている写真が掲載されたページをみた。ものすごくわかりやすくその写真のおかげで無事会場に着けた。
相手の立場にたちどうしたら伝わるか・・・「伝える」ってそういうことなのだと思う。そこに正解もないし、不正解もないと思う。バロメータしてあるのはそれが伝わり意図した行動を起こしてくれたかどうか。その反応が伝えた側に伝わることもあるし伝わってこない時もある。いまいちだという反応が返った時には、伝え方を変えればいいだけ。それだけのことだ。
パソコンの前で相手になんて言って伝えようと悩むこともしばしばある。顔なじみの場合も全く知らない相手に対しての時もあるだろう。立場立場で伝え方は変わるが伝えようとしないと伝えられないところから始まるのだと思う。こちらが持っているものを伝えようとすると必死で伝わるように考える。そこには知識のありなしなんて関係ない。やるかやらないかの二択になる。
シリーズの最後で書くべきことのメモを見ながら書こうとしたが、今思っていることを走り書きで書いた。伝えるというものも技術の話から言語の話から文法の話からいろいろある。深めれば深めるほどという話になるが、基本的に伝えることは楽しいのだと思っていたい。そのためもまずは相手がわかるように伝えること習慣を再認識しようと思う。ただし、肩ひじはらずに。
この「伝わるってナンだ? 情報保障から考える」は2014年4月から毎月第3木曜の夕方に更新してきました。今回をもって終了します。どうもありがとうございました。