もうすぐ閉店になるコーヒーショップで

もうすぐ閉店になるコーヒーショップで、渡辺哲雄さんの『続 老いの風景 人生を味わう』を読んだ。中日新聞で連載された短編小説をまとめたもので『老いの風景』の本としては4冊出ている。前から本の存在は知ってた。よく説明はつかないけど、このタイミングで少し触れてみようと思った。思い出のつまったもうすぐ閉店になるコーヒーショップで。

最近は便利でyoutubeアプリでピッと押せばそのまま曲を再生してくれる。最初は自分の気分で曲を選ぶだけ。途中で気分が変わったらその時に浮かんだ曲を検索窓にいれてを繰り返せばいい。このへんは個人差は意見ですの世界になるわけで。

コーヒーを飲んで読み始めたけど、少し多めに頼んだコーヒーが進まない。胸が少し締めている。思い出したのは、子どものときの祖父母と同居したこと。スマホはないし、今のような“あんしんネット”のようなサービスもない。いざことが起きれば、たえず不安で・・・。

家庭のなかで、病院のなかで・・・いろんな場面での1コマが書かれてあって読み終わるたびに考えさせれた。浅く息継ぎをするような感じで。気がついたら、そろそろの時間になった。

毎日毎日流れてくるニュースとかやりとり。生きていると、その歳ごとに考えなきゃいけないことが少しずつ違ってくる。それがなんとなくわかる。時にはすぐそこにありそうなものを遠回りしてやりすごせなきゃならない場合もある。

最近のZIPFMの朝の番組“ピーチー”でリスナーからの便りに対して、ナビゲーターの橋本さんは一言「人と向き合っていくことなのかなと思います。」と言ったことが自分のなかで残っている。具体的になにがどうでとかかかないけど。

思い出と呼べる思い出があったのかと聞かれると自信がないけど、思い出がつまったコーヒーショップで過ごす時間はあっという間だった。あじけなく、いつものように帰りじたくをする。すがすがしくコーヒーショップを出れた。

いろんなものですませられたけれど、なんとなくこのブログに残しておきたくて。


沖縄について見聞きしたこと

毎年6月になると、そわそわする。沖縄戦が事実上終結されたとされる「沖縄 慰霊の日」が6月23日だからだ。その「沖縄 慰霊の日」の存在を自分が初めて知ったのは高校生のとき。修学旅行の行き先が沖縄に決まり、その事前学習の中でだった。

先日ピースあいちに初めて行き、「2016年沖縄展 辺野古から沖縄・日本を考える」をみてきた。ピースあいちでは毎年この時期に沖縄に関する展示をされているそうだ。琉球王国のこと、沖縄のこと、辺野古のことが丁寧に説明されていてわかりやすかった。その展示の中で、琉球王国もまた日本が清と貿易をしたいがため、その足掛かりに利用されたということ・沖縄が日本に返還されたときに日本本土から多くの米軍基地が沖縄に移設されたことを初めて知った。

radikoプレミアムが始まり、琉球放送が聞けるようになった。気が付いたときは聞いているが、今年も6月23日の慰霊の日はほぼ琉球放送を聞いていた。その中でこんなメッセージが紹介されていた。

「沖縄の人たちは誰でも必ず親族が戦争でなくなっているんですね・・・」

名古屋市だったら、鶴舞中央図書館にいくと琉球新報が読める。以前読んだことがある。同じことを書いているのに、全国紙とは全然違う書き方をしているし、自分でも思いつかない論考だなという箇所が多かった。

もし、自分たちの行動範囲に米軍基地があったとしたら・・・。

そういう想像を続けていくことで、見えてくるものがあると思う。

来年の6月は、どのような心境で迎えるのだろうか。


民度

みなさんは、“民度(みんど)”という言葉をご存知だろうか。自分はつい先日しったばかりというとこだ。つい最近いったご飯の話題がそれだった。最初は何かの聞き間違いだとおもってたが何も言わずにその場の話の流れに身を任せていた。

聞いているうちにだんだんわかってきた。「みんなでおいしくごはんをたべれること」とその場では理解した。その場では“度”と言い始めたところで、なにか基準があってそこからの“度”だからだめだよねーとかいろいろ話してた。

辞書でも確認してみるか。

“民度”をwikipediaで引くとこうだ。

民度(みんど)とは特定の地域に住む人々の知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を指すとされる。明確な定義はなく、曖昧につかわれている言葉である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E5%BA%A6

ものにはついでというものがある。広辞苑でも引いてみるか。

「 人民の生活や文化の程度」

うーん。イメージが何となく違う。これを言葉による腐肉化というものなのか。

3月に、ベトナム・カンボジアと回ってきた。旅の最終日が“クルーズ”だった。そこでみたものが衝撃的だったのでこのエントリーを書いている。シェムリアップの市街地から南へ10キロ。ガタガタ道をはしってついたのは、トンレ・サップ湖への船着場。何もない田舎。

船に乗る・船に乗って、すぐに日本ではないだろうことが起こっていた。自分たちが乗る営業船に子どもが船員として乗っていたのである。出港時には船をこき、船が出て落ち着いたら、お客さんの肩もみ。あるときは操縦もしていた。

トンレ・サップ湖についてまたびっくり。船の上で暮らしている人が何万人もいそうだった。季節によって場所を変えながら、暮らしているということだった。そこには病院も学校もあるようだった。

目の前の“船の上の町”の光景を見ながら、スマホで地図を見ていた。その時に「世界はひろいな」と自分が発したのは忘れてはいけないと思う。

下船後も、びっくりは続いた。乗船時にとられた写真を焼き付けたお皿を子どもが売っていた。自分がバスに乗るまで・・・・。

あまりの衝撃でその一連の写真はとってない。なかったことにしたいというのが、しっくり来る表現なのか。

帰国後、“民度”という言葉を聞いて腑に落ちた。船に一緒に乗った子も、写真を売りつけようとした子も、その場その時を懸命に生きている。それは今こうして日本に住んでいる自分から見たら、問題があること(なのかもしれない)だが、その場所では特に問題がないことなのだと思う。

この辺はまだまだ不勉強だと思う。これから自分のペースで勉強したいと思う。

形は違えど、似たようなことは日本の世の中でもいっぱい起こっている。自分とは違うことを理由に無関心なふりをしたり・・・。

まあいろいろだ。それもこれも、自分というバロメーター(度)があってそれに基づいて、やっているんだと思うのだが・・・。自分がそうだからわかるし、冒頭の“民度”の話でも出たのだが、「やっぱり基準がないと難しいよねぇ。」っていうのはあるんだと思う。じゃあ、その次に出てくるのが、その“基準の幅”を広げるには・・・とかいう話だが、話がながくなったのでまたこんど。


市街地の川にかかる橋の真ん中から撮影 木が見える

シェムリアップ市街地にて


<多様>について考えてみる。


ドキュメンタリー映画『写真家ソール・ライター 急がない人生でみつけた13のこと』をみた。写真に芸術性より商業性を求められた80年代、突如表舞台から消えたソールライダーさん。時を経て感じたことを赤裸々に語っていた。

とにかくでるわでるわのソールライダーさんの持論。映画を楽しむというより、何か教えを画面越しにもらう。そんな感じだった。

今池のシネマテークで『写真家 ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』をみた。あいかわらず、言いきるって気持ちいい。

うろ覚えなのだが、ソールライダーさんはこんなことをいっていた。

多様性多様性というが、それは今にはじまったことではない。昔からあることなのだ。

何かにつけ、(ネット社会を中心とするものに対して)「今の世の中は多様化してますからね・・・。」という論調が世の中を漂う。

多様性と言えば、この映画を見る前に<多様性の中身を知ること>に焦点を当てたいよといっている方のブログを読んだ。以下一部引用。

このことばを使うと、なんだかいろいろOKになった感じがある・・・。一方で、実際に様々な属性、様々な背景、様々な価値観の人たちがいる場で多様性を具現化しようとして、その多様性がゆえの葛藤やズレなどが生じ出すとその状況を収めるためなのか「まぁ、いろいろな人がいますから・・・」とか「人それぞれですからね」と言うことばが登場します。わたしはこの「まぁ、いろいろな人がいますから・・・」といった表現が好きではありません。ことばとしては多様性を認めているかんじもしますが、よくよく考えると、いろいろな人がいるのはわかりきっているので、今みんなで何かに取り組もうとしているそのこと自体に水を差すものだと思うのです。 *1)

本当そのとおりだと感じる。「多様性」というだけで切り札とかワイルドカードになってしまう。その「多様性」の裏側では、どれだけの血の通ったやりとりがあるのだろう。その「多様性」の重なり合いでどれだけの人の生活が満たされた潤いのあるものになっているのだろう。

冬になりかける時期から読んでた谷崎潤一郎さんの陰影礼賛をやっと読み終えた。図書館で借りた本は発刊された当時に製本されたであろう面影が漂っていた。

単に暗い・明るいだけではなく、国民性の話・お手洗いの話・旅の話など多岐にわたるテーマが展開されていた。設備の話・燃料の話はあるけど、とても共感ができた。昔の人も変わらないんだ。そこに驚く分は構わないが、冷静に考えたら、驚くべきトピックではないことがわかる。日々の蓄積があって今があるのだから。

<ネットなどの文明は、「便利になる」ために開発された。>それを逆手にとって、ネットの普及でニーズが多様化したとかいう話ではないと思いたい。

学ぶこと・思いをはせること・・・・はいろいろある。〈多様〉という言葉を多用する前に。

*1)「支える人のための1on1」のこともう少し(2) 学習者の多様性の中身を知る - open lab.
http://open-the-lab.tumblr.com/post/136999347759/支える人のための1on1のこともう少し(2)


矢場とんのカレー

昼から大須演芸場という日、午前中からingressの大須巡りのミッションをしていた。Ingressは、スマホでできるゲームで簡単に言うとスタンプラリーのようなものだ。

たまたま

たまたま、昼近くに矢場とんの近くまできた。「今日のランチはカレーです」みたいなボードをちらほらみていた。昼のメニューは決めていたが、揺らいでいた。そして、矢場とんのビルをみた瞬間自分の中何かがふっとんだ。(1か所ハックするの忘れたし。)ごめんなさい。誘惑されます。

PSという名古屋ローカルの番組で「矢場とんはカレーからはじまった。」みたいなことをやっていたのを思い出してしまったのだ。なんでも3日取材してカレーを頼んだ人は、毎日矢場とんに通う人しかいなかったというカレー。

食す。

お肉やわらかーい

もうほんとうにおいしい。隠し味は秘伝のデミグラスソース
(とPSでいってたような) これがうま味になってあいまって。牛肉もとろとろ。こんなにとろとろでいいんやろうか。

どんなカレーもおいしいんだが、カレーにうま味をとことんまで追求したいときに、おすすめのカレー。

ごちそうさま。


  • 矢場とん なつかしのカレー 1,080円