2ページ目 | 月のはじめに。

ボーダレスアート

新聞を読んでいたら、ひと欄に「米田裕二さん」が載っていた。写真をとっていてこのほど沖縄旅行のドキュメンタリー映画が完成したらしい。その映画を見たくて調べたら、2月に名古屋で上映されるとのことだった。

映画『僕は写真で世界とつながる 米田裕二 22歳』を見に行った。自然体で旅行ドキュメントをみれたというのが感想だ。

映画をみて、米田さんの写真の世界に触れたいと思い、2月下旬に米田さんの写真展を見に、京都に行った。京都市内からやや大阪よりの八幡市ということで毎晩のように携帯片手に当日のコースを練っていた。検討の結果、行きは高速バスで、帰りは在来線を使うことにした。

会場の八幡市文化センターで写真展を見て感じたことも、“自然体でいいんだ”ということ。日常のふとした一コマなんだけどこの一コマを逃すともうそんなショットは来ないみたいなとこにぴたっとはまってボタンを押している。懐に入るみたいな感覚。でも、そんな何文字も使って表現するなんてナンセンスのような感覚。米田さんのお母様にも会うことができた。帰りは車で八幡市駅まで送ってもらった。ありかとうございました。京都市内まで戻る電車も車窓をみる余裕なく、ひたすら検索。一度京都駅に出ることにした。

昼からはぶらり嵐山の「今日、アール・ブリュットを考えてみる」を見た。絵があったり、写真があったり。誰にでも人にはわからないんだろうけど大切にしているものってあると思う。そういう写真。そういう解釈を自分はした。

京都駅から名古屋までは在来線。あんなことこんなこといろいろ考えたけど、考えつかれて何を考えたのか忘れた。旅の前も旅の後も忙しい。役割について考えていた。自分、障害のある人、そして支援者・・・。それぞれの思いはあるけどそういうことがうまく重ねるときも重ならない時もある。自分の思考はもっと複雑だったと思うけど、概すればそんなとこだったのだろう。その時、ラジオで聞いたNakamura Emiさんの“Yamabiko”という曲を思い出した。


4月にもボーダレスアートフォーラムボーダレスアートについての評論会に参加した。

ボーダレスアートという言葉にアンテナを張ってた数ヶ月だった。いろいろな事例にふれて、いろんなことを考えた時間だったがいまいちまとまってない。しばらく時間をおいてまた考えたいと思う。その時がくるまでまた寄り道をたくさんしようと思っている。

この間にまとめたもの

障害者アートを巡る旅
http://togetter.com/li/943439
ボーダレスシンポジウム20160416@愛知・瀬戸
http://togetter.com/li/963584


民度

みなさんは、“民度(みんど)”という言葉をご存知だろうか。自分はつい先日しったばかりというとこだ。つい最近いったご飯の話題がそれだった。最初は何かの聞き間違いだとおもってたが何も言わずにその場の話の流れに身を任せていた。

聞いているうちにだんだんわかってきた。「みんなでおいしくごはんをたべれること」とその場では理解した。その場では“度”と言い始めたところで、なにか基準があってそこからの“度”だからだめだよねーとかいろいろ話してた。

辞書でも確認してみるか。

“民度”をwikipediaで引くとこうだ。

民度(みんど)とは特定の地域に住む人々の知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を指すとされる。明確な定義はなく、曖昧につかわれている言葉である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E5%BA%A6

ものにはついでというものがある。広辞苑でも引いてみるか。

「 人民の生活や文化の程度」

うーん。イメージが何となく違う。これを言葉による腐肉化というものなのか。

3月に、ベトナム・カンボジアと回ってきた。旅の最終日が“クルーズ”だった。そこでみたものが衝撃的だったのでこのエントリーを書いている。シェムリアップの市街地から南へ10キロ。ガタガタ道をはしってついたのは、トンレ・サップ湖への船着場。何もない田舎。

船に乗る・船に乗って、すぐに日本ではないだろうことが起こっていた。自分たちが乗る営業船に子どもが船員として乗っていたのである。出港時には船をこき、船が出て落ち着いたら、お客さんの肩もみ。あるときは操縦もしていた。

トンレ・サップ湖についてまたびっくり。船の上で暮らしている人が何万人もいそうだった。季節によって場所を変えながら、暮らしているということだった。そこには病院も学校もあるようだった。

目の前の“船の上の町”の光景を見ながら、スマホで地図を見ていた。その時に「世界はひろいな」と自分が発したのは忘れてはいけないと思う。

下船後も、びっくりは続いた。乗船時にとられた写真を焼き付けたお皿を子どもが売っていた。自分がバスに乗るまで・・・・。

あまりの衝撃でその一連の写真はとってない。なかったことにしたいというのが、しっくり来る表現なのか。

帰国後、“民度”という言葉を聞いて腑に落ちた。船に一緒に乗った子も、写真を売りつけようとした子も、その場その時を懸命に生きている。それは今こうして日本に住んでいる自分から見たら、問題があること(なのかもしれない)だが、その場所では特に問題がないことなのだと思う。

この辺はまだまだ不勉強だと思う。これから自分のペースで勉強したいと思う。

形は違えど、似たようなことは日本の世の中でもいっぱい起こっている。自分とは違うことを理由に無関心なふりをしたり・・・。

まあいろいろだ。それもこれも、自分というバロメーター(度)があってそれに基づいて、やっているんだと思うのだが・・・。自分がそうだからわかるし、冒頭の“民度”の話でも出たのだが、「やっぱり基準がないと難しいよねぇ。」っていうのはあるんだと思う。じゃあ、その次に出てくるのが、その“基準の幅”を広げるには・・・とかいう話だが、話がながくなったのでまたこんど。


市街地の川にかかる橋の真ん中から撮影 木が見える

シェムリアップ市街地にて


2つの大学博物館

いつか行ってみようと思っていた2つの“大学博物館”に行くことができた。あんまりおおやけになっていないと思う。気軽に楽しめたので。

南山大学人類学博物館

人類学に重きを置いた博物館。2013年秋に全面リニューアルされた。古代の土器・道具・・・日本のものや外国のもの・・・。こんなものを発掘した人もいるのか。




展示を見終わったあとは、ジャズとか年代もののCDたちのラック。自分が触ると収拾がつかなくなるとおもうので、「あるんだな」におさめる。


南山大学人類学博物館のポイントは“さわれる”。合言葉の<For Everyone's Curiosities 全ての人の好奇心のために>のもとで展示物に“さわれる”。ユニバーサルミュージアムだ。


南山大学人類学博物館


名古屋市昭和区山里町18
最寄り駅 地下鉄名城線「八事日赤」・地下鉄鶴舞線「いりなか」
(地下鉄名城線「八事日赤」のほうが近い。)
急勾配の坂の上なので注意。
開館日などの詳細はリンク先にて。


名古屋大学博物館


個人的にそそられたのは、“名古屋の地形”。大昔からの地形の変化。ブラタモリの世界。



名古屋大学で研究しているいくつかの分野をピックアップして、展示している。名大の歴史・医療・電子・名大出身のノーベル賞受賞者の功績・・・・。


名古屋大学博物館

名古屋市千種区不老町
最寄り駅 地下鉄名城線「名古屋大学」
開館日などの詳細はリンク先にて。


<多様>について考えてみる。


ドキュメンタリー映画『写真家ソール・ライター 急がない人生でみつけた13のこと』をみた。写真に芸術性より商業性を求められた80年代、突如表舞台から消えたソールライダーさん。時を経て感じたことを赤裸々に語っていた。

とにかくでるわでるわのソールライダーさんの持論。映画を楽しむというより、何か教えを画面越しにもらう。そんな感じだった。

今池のシネマテークで『写真家 ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』をみた。あいかわらず、言いきるって気持ちいい。

うろ覚えなのだが、ソールライダーさんはこんなことをいっていた。

多様性多様性というが、それは今にはじまったことではない。昔からあることなのだ。

何かにつけ、(ネット社会を中心とするものに対して)「今の世の中は多様化してますからね・・・。」という論調が世の中を漂う。

多様性と言えば、この映画を見る前に<多様性の中身を知ること>に焦点を当てたいよといっている方のブログを読んだ。以下一部引用。

このことばを使うと、なんだかいろいろOKになった感じがある・・・。一方で、実際に様々な属性、様々な背景、様々な価値観の人たちがいる場で多様性を具現化しようとして、その多様性がゆえの葛藤やズレなどが生じ出すとその状況を収めるためなのか「まぁ、いろいろな人がいますから・・・」とか「人それぞれですからね」と言うことばが登場します。わたしはこの「まぁ、いろいろな人がいますから・・・」といった表現が好きではありません。ことばとしては多様性を認めているかんじもしますが、よくよく考えると、いろいろな人がいるのはわかりきっているので、今みんなで何かに取り組もうとしているそのこと自体に水を差すものだと思うのです。 *1)

本当そのとおりだと感じる。「多様性」というだけで切り札とかワイルドカードになってしまう。その「多様性」の裏側では、どれだけの血の通ったやりとりがあるのだろう。その「多様性」の重なり合いでどれだけの人の生活が満たされた潤いのあるものになっているのだろう。

冬になりかける時期から読んでた谷崎潤一郎さんの陰影礼賛をやっと読み終えた。図書館で借りた本は発刊された当時に製本されたであろう面影が漂っていた。

単に暗い・明るいだけではなく、国民性の話・お手洗いの話・旅の話など多岐にわたるテーマが展開されていた。設備の話・燃料の話はあるけど、とても共感ができた。昔の人も変わらないんだ。そこに驚く分は構わないが、冷静に考えたら、驚くべきトピックではないことがわかる。日々の蓄積があって今があるのだから。

<ネットなどの文明は、「便利になる」ために開発された。>それを逆手にとって、ネットの普及でニーズが多様化したとかいう話ではないと思いたい。

学ぶこと・思いをはせること・・・・はいろいろある。〈多様〉という言葉を多用する前に。

*1)「支える人のための1on1」のこともう少し(2) 学習者の多様性の中身を知る - open lab.
http://open-the-lab.tumblr.com/post/136999347759/支える人のための1on1のこともう少し(2)


矢場とんのカレー

昼から大須演芸場という日、午前中からingressの大須巡りのミッションをしていた。Ingressは、スマホでできるゲームで簡単に言うとスタンプラリーのようなものだ。

たまたま

たまたま、昼近くに矢場とんの近くまできた。「今日のランチはカレーです」みたいなボードをちらほらみていた。昼のメニューは決めていたが、揺らいでいた。そして、矢場とんのビルをみた瞬間自分の中何かがふっとんだ。(1か所ハックするの忘れたし。)ごめんなさい。誘惑されます。

PSという名古屋ローカルの番組で「矢場とんはカレーからはじまった。」みたいなことをやっていたのを思い出してしまったのだ。なんでも3日取材してカレーを頼んだ人は、毎日矢場とんに通う人しかいなかったというカレー。

食す。

お肉やわらかーい

もうほんとうにおいしい。隠し味は秘伝のデミグラスソース
(とPSでいってたような) これがうま味になってあいまって。牛肉もとろとろ。こんなにとろとろでいいんやろうか。

どんなカレーもおいしいんだが、カレーにうま味をとことんまで追求したいときに、おすすめのカレー。

ごちそうさま。


  • 矢場とん なつかしのカレー 1,080円