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やみつき

名古屋市の西区のほうでランチを探していたら元力士琴光喜関が経営する焼肉屋「やみつき」を見つけ、行ってみることに。

開店10分前について誰もいなかったから「早すぎたね?」とか話してたら、くるわくるわ。次から次へと。

まもなく席に通され、“やみつき丼”を注文。口コミでは「サラダもおいしい。」とのことだったので、サラダも。

オーダーしてからも次々にお客さんが入ってくる。あまり見かけない光景に平然を貫きつつもびびってしまう。

待つこと5分。



欲してた味。たれは甘くもなく、からくもなく。肉の塊もかみごたえがある。一巡したら目の前の汁(かきたま風)に自然に手が伸びる。自然の摂理。



そのループを何回かやって夢の時間は終わり。おかわりもアンコールもないのがさみしくなる。

焼肉屋やみつき
本店 名古屋市西区西区香呑町4-65 第5中村ハイツ
電話 052-524-6529


沖縄について見聞きしたこと

毎年6月になると、そわそわする。沖縄戦が事実上終結されたとされる「沖縄 慰霊の日」が6月23日だからだ。その「沖縄 慰霊の日」の存在を自分が初めて知ったのは高校生のとき。修学旅行の行き先が沖縄に決まり、その事前学習の中でだった。

先日ピースあいちに初めて行き、「2016年沖縄展 辺野古から沖縄・日本を考える」をみてきた。ピースあいちでは毎年この時期に沖縄に関する展示をされているそうだ。琉球王国のこと、沖縄のこと、辺野古のことが丁寧に説明されていてわかりやすかった。その展示の中で、琉球王国もまた日本が清と貿易をしたいがため、その足掛かりに利用されたということ・沖縄が日本に返還されたときに日本本土から多くの米軍基地が沖縄に移設されたことを初めて知った。

radikoプレミアムが始まり、琉球放送が聞けるようになった。気が付いたときは聞いているが、今年も6月23日の慰霊の日はほぼ琉球放送を聞いていた。その中でこんなメッセージが紹介されていた。

「沖縄の人たちは誰でも必ず親族が戦争でなくなっているんですね・・・」

名古屋市だったら、鶴舞中央図書館にいくと琉球新報が読める。以前読んだことがある。同じことを書いているのに、全国紙とは全然違う書き方をしているし、自分でも思いつかない論考だなという箇所が多かった。

もし、自分たちの行動範囲に米軍基地があったとしたら・・・。

そういう想像を続けていくことで、見えてくるものがあると思う。

来年の6月は、どのような心境で迎えるのだろうか。


大和路さんぽ

連休明けの週末、関西へいった。初日の午前中の動きが気持ちよかったので。

名古屋を出て東名阪で亀山SAへ。そうだ。カレーだ。知り合いの方が頻繁に“朝カレー”の画像をUPしている。それにあやかろうかと。

実に気持ちよい。ささやかだけど、充実感がある。これで、バリバリかと思いきや、早起きやその周辺の疲れでクールダウンしたい感じに。

おはようございます。朝カレーを食べてみましたが眠いです。気をつけて行ってきます。ココロのなみこさんを聞きながら

少し元気を取り戻したら、奈良・天理。

十二神社

小高い森の中にあった。お勤めとか通路の掃除・・・。朝の準備中といった具合。森の中の静かさがよかった。

長岳寺

駐車場から受付までが長かった。参拝を終えて池のまわりをあるいて ふりかえった景色がよかった。池の向こうのつつじと曇り空がよくあう。



大神神社


国道から見える大きな土色の鳥居にびっくり。結構大きく人もそれなりにちらほら。ゆったりとした境内。


橿原神宮

伊勢神宮や熱田神宮と比べ開放的。壮の中に境内があるのは同じだが、緑が参拝者が通る通路から離れた場所に見える。一面の白砂利。参拝者は少なめで、参拝が終わるころに雨が降り出す。雨が降り出したので、観光はここまで。

お昼

お目当ての店をやっと見つけるが、やっていないようだ。途中にあったお店に入る。メニューを見て迷うが、またカレーにすることにした。



時間にして4時間弱の出来事だったが心が洗われた感じだった。いつかまた訪れてみたい。


ボーダレスアート

新聞を読んでいたら、ひと欄に「米田裕二さん」が載っていた。写真をとっていてこのほど沖縄旅行のドキュメンタリー映画が完成したらしい。その映画を見たくて調べたら、2月に名古屋で上映されるとのことだった。

映画『僕は写真で世界とつながる 米田裕二 22歳』を見に行った。自然体で旅行ドキュメントをみれたというのが感想だ。

映画をみて、米田さんの写真の世界に触れたいと思い、2月下旬に米田さんの写真展を見に、京都に行った。京都市内からやや大阪よりの八幡市ということで毎晩のように携帯片手に当日のコースを練っていた。検討の結果、行きは高速バスで、帰りは在来線を使うことにした。

会場の八幡市文化センターで写真展を見て感じたことも、“自然体でいいんだ”ということ。日常のふとした一コマなんだけどこの一コマを逃すともうそんなショットは来ないみたいなとこにぴたっとはまってボタンを押している。懐に入るみたいな感覚。でも、そんな何文字も使って表現するなんてナンセンスのような感覚。米田さんのお母様にも会うことができた。帰りは車で八幡市駅まで送ってもらった。ありかとうございました。京都市内まで戻る電車も車窓をみる余裕なく、ひたすら検索。一度京都駅に出ることにした。

昼からはぶらり嵐山の「今日、アール・ブリュットを考えてみる」を見た。絵があったり、写真があったり。誰にでも人にはわからないんだろうけど大切にしているものってあると思う。そういう写真。そういう解釈を自分はした。

京都駅から名古屋までは在来線。あんなことこんなこといろいろ考えたけど、考えつかれて何を考えたのか忘れた。旅の前も旅の後も忙しい。役割について考えていた。自分、障害のある人、そして支援者・・・。それぞれの思いはあるけどそういうことがうまく重ねるときも重ならない時もある。自分の思考はもっと複雑だったと思うけど、概すればそんなとこだったのだろう。その時、ラジオで聞いたNakamura Emiさんの“Yamabiko”という曲を思い出した。


4月にもボーダレスアートフォーラムボーダレスアートについての評論会に参加した。

ボーダレスアートという言葉にアンテナを張ってた数ヶ月だった。いろいろな事例にふれて、いろんなことを考えた時間だったがいまいちまとまってない。しばらく時間をおいてまた考えたいと思う。その時がくるまでまた寄り道をたくさんしようと思っている。

この間にまとめたもの

障害者アートを巡る旅
http://togetter.com/li/943439
ボーダレスシンポジウム20160416@愛知・瀬戸
http://togetter.com/li/963584


民度

みなさんは、“民度(みんど)”という言葉をご存知だろうか。自分はつい先日しったばかりというとこだ。つい最近いったご飯の話題がそれだった。最初は何かの聞き間違いだとおもってたが何も言わずにその場の話の流れに身を任せていた。

聞いているうちにだんだんわかってきた。「みんなでおいしくごはんをたべれること」とその場では理解した。その場では“度”と言い始めたところで、なにか基準があってそこからの“度”だからだめだよねーとかいろいろ話してた。

辞書でも確認してみるか。

“民度”をwikipediaで引くとこうだ。

民度(みんど)とは特定の地域に住む人々の知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を指すとされる。明確な定義はなく、曖昧につかわれている言葉である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E5%BA%A6

ものにはついでというものがある。広辞苑でも引いてみるか。

「 人民の生活や文化の程度」

うーん。イメージが何となく違う。これを言葉による腐肉化というものなのか。

3月に、ベトナム・カンボジアと回ってきた。旅の最終日が“クルーズ”だった。そこでみたものが衝撃的だったのでこのエントリーを書いている。シェムリアップの市街地から南へ10キロ。ガタガタ道をはしってついたのは、トンレ・サップ湖への船着場。何もない田舎。

船に乗る・船に乗って、すぐに日本ではないだろうことが起こっていた。自分たちが乗る営業船に子どもが船員として乗っていたのである。出港時には船をこき、船が出て落ち着いたら、お客さんの肩もみ。あるときは操縦もしていた。

トンレ・サップ湖についてまたびっくり。船の上で暮らしている人が何万人もいそうだった。季節によって場所を変えながら、暮らしているということだった。そこには病院も学校もあるようだった。

目の前の“船の上の町”の光景を見ながら、スマホで地図を見ていた。その時に「世界はひろいな」と自分が発したのは忘れてはいけないと思う。

下船後も、びっくりは続いた。乗船時にとられた写真を焼き付けたお皿を子どもが売っていた。自分がバスに乗るまで・・・・。

あまりの衝撃でその一連の写真はとってない。なかったことにしたいというのが、しっくり来る表現なのか。

帰国後、“民度”という言葉を聞いて腑に落ちた。船に一緒に乗った子も、写真を売りつけようとした子も、その場その時を懸命に生きている。それは今こうして日本に住んでいる自分から見たら、問題があること(なのかもしれない)だが、その場所では特に問題がないことなのだと思う。

この辺はまだまだ不勉強だと思う。これから自分のペースで勉強したいと思う。

形は違えど、似たようなことは日本の世の中でもいっぱい起こっている。自分とは違うことを理由に無関心なふりをしたり・・・。

まあいろいろだ。それもこれも、自分というバロメーター(度)があってそれに基づいて、やっているんだと思うのだが・・・。自分がそうだからわかるし、冒頭の“民度”の話でも出たのだが、「やっぱり基準がないと難しいよねぇ。」っていうのはあるんだと思う。じゃあ、その次に出てくるのが、その“基準の幅”を広げるには・・・とかいう話だが、話がながくなったのでまたこんど。


市街地の川にかかる橋の真ん中から撮影 木が見える

シェムリアップ市街地にて