みなさんは、“民度(みんど)”という言葉をご存知だろうか。自分はつい先日しったばかりというとこだ。つい最近いったご飯の話題がそれだった。最初は何かの聞き間違いだとおもってたが何も言わずにその場の話の流れに身を任せていた。
聞いているうちにだんだんわかってきた。「みんなでおいしくごはんをたべれること」とその場では理解した。その場では“度”と言い始めたところで、なにか基準があってそこからの“度”だからだめだよねーとかいろいろ話してた。
辞書でも確認してみるか。
“民度”をwikipediaで引くとこうだ。
民度(みんど)とは特定の地域に住む人々の知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を指すとされる。明確な定義はなく、曖昧につかわれている言葉である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E5%BA%A6
ものにはついでというものがある。広辞苑でも引いてみるか。
うーん。イメージが何となく違う。これを言葉による腐肉化というものなのか。
3月に、ベトナム・カンボジアと回ってきた。旅の最終日が“クルーズ”だった。そこでみたものが衝撃的だったのでこのエントリーを書いている。シェムリアップの市街地から南へ10キロ。ガタガタ道をはしってついたのは、トンレ・サップ湖への船着場。何もない田舎。
船に乗る・船に乗って、すぐに日本ではないだろうことが起こっていた。自分たちが乗る営業船に子どもが船員として乗っていたのである。出港時には船をこき、船が出て落ち着いたら、お客さんの肩もみ。あるときは操縦もしていた。
トンレ・サップ湖についてまたびっくり。船の上で暮らしている人が何万人もいそうだった。季節によって場所を変えながら、暮らしているということだった。そこには病院も学校もあるようだった。
目の前の“船の上の町”の光景を見ながら、スマホで地図を見ていた。その時に「世界はひろいな」と自分が発したのは忘れてはいけないと思う。
下船後も、びっくりは続いた。乗船時にとられた写真を焼き付けたお皿を子どもが売っていた。自分がバスに乗るまで・・・・。
あまりの衝撃でその一連の写真はとってない。なかったことにしたいというのが、しっくり来る表現なのか。
帰国後、“民度”という言葉を聞いて腑に落ちた。船に一緒に乗った子も、写真を売りつけようとした子も、その場その時を懸命に生きている。それは今こうして日本に住んでいる自分から見たら、問題があること(なのかもしれない)だが、その場所では特に問題がないことなのだと思う。
この辺はまだまだ不勉強だと思う。これから自分のペースで勉強したいと思う。
形は違えど、似たようなことは日本の世の中でもいっぱい起こっている。自分とは違うことを理由に無関心なふりをしたり・・・。
まあいろいろだ。それもこれも、自分というバロメーター(度)があってそれに基づいて、やっているんだと思うのだが・・・。自分がそうだからわかるし、冒頭の“民度”の話でも出たのだが、「やっぱり基準がないと難しいよねぇ。」っていうのはあるんだと思う。じゃあ、その次に出てくるのが、その“基準の幅”を広げるには・・・とかいう話だが、話がながくなったのでまたこんど。
シェムリアップ市街地にて